市川團十郎と成田山

成田山と関係の深い歌舞伎役者といえば、市川宗家・市川團十郎です。

市川宗家の屋号は「成田屋」です。

初代市川團十郎

初代市川團十郎奉納の大鏡



  暫は定紋の三升        助六は替紋の杏葉牡丹 

歌舞伎の世界では、紋は定紋と替紋の二つがあります。

市川宗家の場合は、定紋は三升で替紋は杏葉牡丹です。

演目により紋を変えているようです。


  定紋  三 升                     替紋  杏葉牡丹

成 田 屋

市川團十郎、市川宗家と言えば、屋号は成田屋なぜ屋号を成田屋にしたのか?

簡単に言えば初代團十郎の父が成田市幡谷の出身で初代團十郎は子宝に恵まれず、

信仰していた成田山に祈願したところ男の子(二代目團十郎)を授かった。

また成田山不動明王を演じたこともあり、市川宗家の屋号を成田屋とした。

 

市川宗家は、仏教徒で真言宗と思っている方も多いと思いますが、

しかし現在は仏教徒ではない。九代目團十郎が神道に改宗した。

現在は市川宗家(堀越家)の墓地は青山霊園にあります。

 

十代目團十郎は市川宗家の先祖は山梨県甲府の出身説をとり、

山梨県西八代群三珠町を市川家(堀越家)発祥の地と認定した。

第十一代市川海老蔵さんが2016年6月1日のブログで成田山で得度を受けたことを報告しています。

仏教徒になるのでしょうか?なったのでしょうか?

        得度とは仏教における僧侶となるための出家の儀式。


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市川宗家のについて
市川團十郎代々HP.pdf
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七代目市川團十郎

額堂にある七代目市川團十郎の石像 

歴代市川團十郎のなかでも七代目團十郎は、市川宗家の跡継ぎが無くなる事を

非常に心配していた様である。

成田山や四国の箸蔵寺などに七代目と八代目市川團十郎が

寄進している石灯籠を見ると必ず、[子孫蕃育祈]の文字が見られます。

七代目市川團十郎が1821年に寄進した額堂

1965年(昭和40年)放火により焼失した。

三重塔の傍に建っていました(絵図参照)

下の絵を見ると三重塔左側・鐘楼の後方に三升の額堂が見えます。 

境 内 絵 図

三升の額堂は、1821年建立

絵図の本堂(現在の釈迦堂)は、1858年建立

これらの事から、この境内絵図は1860年頃の作と思われる。

 

*****成田山から借金をした男*****

成田山からお金を借りた人なんているのか?

歴代團十郎の中でも波乱万丈の人生を送った七代目市川團十郎は

1821年一千両の大金で額堂を寄進した。このころは羽振りが良く妻三人妾三人がいた。

しかし二十数年後には奢侈禁止令により[家主預かり・手鎖り・江戸十里四方追放]の刑を

受けた。家主預かりなので、財産も没収されて経済的に困っていたのか?

この時期に成田山より、多額の借金をしたようである。

 美貌の歌舞伎役者八代目市川團十郎も貫首より百両の借金をしているが

、自殺したので今もって返済はされていないようです。

成田山には当時の借用書が現在も保存されているようです。

返済されていれば借用書は成田山には無いはずですね。

 

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七代目團十郎と天保の改革HP.pdf
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松本幸四郎家との関係

二代目松本幸四郎の父は二代目市川團十郎と云われています。

この様なことから、市川宗家に跡取りが居ない場合は、松本家から養子を迎えた。

この事は両家の暗黙の了解事項か?

近年では十一代目市川團十郎は、七代目松本幸四郎の長男である。

即ち松本家から市川家への養子である。

十一代目は男前の歌舞伎役者で多くの女性ファンを魅了したと伝えられています。

中でも女性ファンの「海老断ち」は有名な話です。

海老蔵さんに悪いからと女性ファンは海老を食べなかったようです。

寿司屋や天ぷら屋は商売にならないと困った様ですね。

歴代團十郎のなかでは、八代目も美男であったと伝えられています。

 

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八代目市川團十郎自殺HP.pdf
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市川宗家は、なぜ成田屋を名のっているのか?

曾祖父は能係を務めた武田家の家臣で、堀越十郎が

市川三郷町(旧三珠町上野)の地を領し、武田滅亡後に下総国へ落ち延びたという。

祖父は成田市幡谷では農業をしていた様である。

しかし初代團十郎の父は、農業が嫌いで市川市へ移り住み

「面疵の重蔵」「菰の重蔵」などと呼ばれた侠客(きょうかく)であったようです。

顔に斬られた傷があったのでしょうか?

面疵(つらきず)とは、いかにも怖そうな・・・。 

十代目團十郎は甲州出身説をとり、山梨県西八代郡三珠町を

市川家(堀越家)発祥の地と認定した。

決め手は甲府の古民家で市川家の家系図を発見した様です。

「市川團十郎発祥の地」の碑(三珠町歌舞伎文化公園 

十代目市川團十郎は 、慶応義塾大学を卒業して銀行に勤めていた時、

九代目市川團十郎の長女と恋愛し市川家の婿養子となる。

これを機会に30才近くで歌舞伎役者に転じ市川三升として活躍する。

彼は歌舞伎役者としては、異色の経歴で学者肌だったようだ。

告別式の日に十代目市川團十郎を十一代目より追贈された。 

 東光寺成田市幡谷1045 に「市川團十郎居住地」の碑がある。 

先祖は甲府出身で、曾祖父堀越十郎が成田に移り住んだ。

初代市川團十郎は子宝に恵まれる様、成田山に祈願して

無事二代目が誕生したことで、屋号を成田屋とした。 

「市川團十郎発祥之地」の碑 

山梨県市川三郷町

  市川團十郎居住地の碑

東光寺成田市幡谷1045


  初代市川團十郎は、何故[市川]を名のったのか?

     1.市川宗家の姓は堀越であるが、初代團十郎の曾祖父は山梨県の

       市川大門町の出身である為、この地名の市川を名のったのか?

     2.祖父が成田市幡谷に移り住むが、農業の嫌いな父親が

       千葉県市川市に移り住んだから、この市川を名のったのか?

成田山 市川團十郎

初代市川團十郎は45歳の時、江戸市村座の舞台で

仲間の役者生島半六に刺殺されました。

 

七代目市川團十郎は波乱万丈の人生を送りました。

[天保の改革]の奢侈禁止令で江戸十里四方所払・家主預かり・手鎖の刑により

江戸を離れ成田山延命院に半年余り蟄居(ちょっき)していました。

 

八代目市川團十郎は美貌の歌舞伎役者であったようです。

しかし32歳の時大阪で自殺いたしました。

 

十一代目市川團十郎は松本幸四郎家からの養子です

だから海老蔵さんと松たか子さんは遠い親戚ですか?

 

十一代市川海老蔵さんのお父さんは故十二代目市川團十郎さんですが

初代から十二代目團十郎迄の内、半分の六代は養子です。

(三代目・四代目・六代目・七代目・十代目(婿養子)・十一代目は養子です)

 

十一代目市川海老蔵さんの父十二代目市川団團十郎さんは

十一代目團十郎と女中(後に結婚)の間に生まれる。

生まれた場所が、トイレでした。詳しくは

作家宮尾登美子女史の「きのね」を是非一読下さい。

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宮尾登美子作「きのね」
「きのね」あらすじ
きのねHP.pdf
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延命院旧跡

上部は市川家の定紋「三升」になっています。 

 

七代目市川團十郎が奢侈禁止令で江戸十里四方所払になった時

ここ成田山延命院に半年余り寓居した。

総門を後に成田駅に向かうと参道右側には

駿河屋・ひしや旅館・江戸久があります。

延命院旧跡は[ひしや旅館]と[江戸久]の間にあります。

 

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江戸時代の刑罰と七代目市川團十郎
江戸時代の刑罰HP.pdf
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千両役者 十八番(おはこ)
歌舞伎十八番HP.pdf
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